2012年11月29日

新しい絵をアップしました

最近はpixivで新しい絵をアップして、いつものようにグループでフィードバックを頼みました。そして、pixivの面白い機能をとうとうしてみました。誰かがアドバイスが欲しいと言ったら、誰でもコメントする同時に描き直された絵もポストが出来るという機能です。私がこのように誰かの絵を描き直して、楽しいと思って、独自の絵の芸術者が感謝したようなので、いい実験だったと思います。

2012年11月26日

アメリカでアニメのローカライゼーション

日本のポップカルチャー(特に漫画とアニメ)が世界中で広がっていく中で、二つの現象が同時に起こっています。日本のポップカルチャーが外へ行く現象(つまりグロバライゼーション)だけではなく、各国に受け入れられる現象(言わばローカライゼーション)もあります。両方はとても大切ですが、ローカライゼーションの現象の方が面白いと思います。

でも、受け入れられるというのは具体的にどううことなのでしょうか。例えば、アメリカでアニメがローカライゼーションされたと述べたかったら、どのような根拠がありますか。一番分かりやすいのはアニメを中心にするサイトとコミュニティーでいっぱいのインターネットだと思います。イラストコミュニティーにもアニメのスタイルで描く若者が非常に多いです。一方で、最近は普通の店でも人気があるアニメのDVDを買えるようになりました。

そうは言っても、そんな根拠は大体ファンコミュニティー内のことだけなので、アニメが本当にローカライゼーションされたと言うのに十分ですか。アメリカでは、アニメはまだ人気がなくて、普通の人にとって子供以外の人が見るのは変だと思われています。でも、この状況が変わりつつあると思います。どうしてかというと、子供と若者のために作った物と作品はだんだんアニメのようなイメージを使うからです。とてもいい例は大人気の「Avatar: The Last Airbender」(日本語:「アバター 伝説の少年アン」)と「The Legend of Korra」という番組だと思います。

Avatar: The Last Airbender
The Legend of Korra
この番組はアメリカの視聴者のために作られましたが、東アジアの文化に影響されているし、アニメに似ているので、この番組はアメリカのメディアでよく「cartoon」ではなく「アニメ」と呼ばれています。日本のアニメを輸入することだけではなく、独自のアニメが(少し)主流メディアに現れたからこそ、ローカライゼーションという過程が成功すると言えると思います。

2012年11月21日

国際会議の言語

今週はリービ・ひでおが翻訳について書いた記事を読みました。私にとって一番面白いところはリービの国際比較文学の世界大会での経験だと思います。手っ取り早くまとめれば、リービは母語として英語を話しても、日本語でスピーチするように頼まれたのです。でも、それはどうして特に面白いかというと、たいていはこの会議で英語とフランス語しか話されていないからです。この経験を通して、リービは「中心」の英語(あるいは特権の西洋語)と「周辺」になってしまった日本語(あるいは西洋語以外全部の言語)を分けたかったのです。

リービによると、これは問題です。というのは、国際会議である言語を中心としたら、その言語(それに加えその文化)の価値の方が高いというメッセージを伝えるからです。私はこの意見に賛成なので、一理あると思いますが、実践的に考えれば、現状の方が分かりやすいんじゃないかと思います。この会議のスポンサーは国際的な組織だし、皆は異なる言語を話せるので、共有出来る言語がやはり必要です。英語とフランス語は母語でも外国語でも世界中で広がっているからこそ選ばれました。(スペイン語などのように他の選択があると思いますが…)残念ながら、仕方がないと思います。

でも、実は「国際会議」と聞いて、すぐに近代オリンピックと比べたくなりました。近代オリンピックはリービが参加した会議と同じで、公用語は英語とフランス語です。でも、もう一つの公用語があって、開催国の言語です。この状況は一番いい解決だと思います。というのは、実践的な言語を使いつつ、開催国の貢献も同じように認められるからです。このようなシステムも問題点があると思いますが、国際比較文学の会議よりフェアだと思います。


国際的な近代オリンピック

2012年11月15日

「深夜食堂」

「深夜食堂」という漫画を知っていますか。最近初めて第1話から第3話まで読みました。私はこのような日常的な人間関係に関する話がたいていはあまり好きじゃありませんが、この漫画は面白いところもあると思います。(もし読み続けたら、私の意見が必ず変わると思いますが、今知っていることだけについて書きます。)

私にとって、一番面白いところはレストランの名前です。「深夜食堂」という名前は二つの大事な要素があると思います。まず「食堂」という言葉を見ましょう。このレストランはどうして「~屋」か「~点」と呼ばれていないかというと、名前はお客から来たからだと思います。というのは、「食堂」という言葉はコミュニティーの感じを持っているので、この名は人間(関係)の大切さを強調するからです。このメニューさえないレストランでは、食べ物より仲間と会話の方が大切なようです。

次の大切な要素は「深夜」という言葉です。深夜食堂は夜にしか開店しませんから、普通のレストランと違うものだという点がすぐ分かります。それで、特別な所ならば特別な出来事が起こる可能性があります。その上、深夜は人が少し弱くなって本当の顔を見せる可能性がある時間だと思います。そのような時間には他の人と深い関係を持てるようになります。こんな特徴はこの食堂(つまりこの話)にとっていいんじゃないかと思います。この理由で、「深夜食堂」はとてもふさわしい名前だと思います。

この話はどうなるか全然分かりませんから、私の考えは正しいかどうかも分かりません。でも、「深夜食堂」というものはとても面白そうだと思います。

深夜でも人がたくさんいます。

2012年11月10日

翻案について

翻案の目的は何ですか。この質問について考える前に、まずは翻案と翻訳について定義したいと思います。翻訳というのは(直訳でも意訳でも)原作を外国語で書き直すことですが、翻案というのは言語だけではなく構造も文化的な言及も変えることです。翻訳も翻案も基本的な目的は原作を読めない読者のために分かりやすくすることなので、両方はいいと思いました。

でも、最近は、授業のために「菜の花や月は東に日は西に」という俳句とクレア・マリイさんの英語の翻案を読みました。そうすると、翻案の実践的な目的は何かと思い始めました。

この場合では、俳句の言語やイメージにあまり慣れていない私にとって、英語の翻案の方が分かりやすいと思いました。短過ぎる元の俳句の表したい感じが絶対分からなかったからです。(それは私だけのせいだと思いますが…。)でも、翻案の感じと原作の感じは本当に同じですか。イメージは同じですか。

 
 (「Rapeseed flowers」と「菜の花」-同じですか。違えば、大事ですか。)

どうしてこの質問を聞きたいかというと、翻案者はその俳句を自分で解釈して書き直したという点はとても大切だと思うからです。もちろん、翻訳者もこのような過程をしなければならなりません。けれども、構造と言語を守らないマリイさんのような翻案は原作と同じテーマについて書かれた独自の詩になっているんじゃないかと思います。でも、違う詩になったら、翻案の目的は一体何ですか。

翻案も役に立つと思いますが、たいていは翻訳の方がいいと思います。