2012年11月21日

国際会議の言語

今週はリービ・ひでおが翻訳について書いた記事を読みました。私にとって一番面白いところはリービの国際比較文学の世界大会での経験だと思います。手っ取り早くまとめれば、リービは母語として英語を話しても、日本語でスピーチするように頼まれたのです。でも、それはどうして特に面白いかというと、たいていはこの会議で英語とフランス語しか話されていないからです。この経験を通して、リービは「中心」の英語(あるいは特権の西洋語)と「周辺」になってしまった日本語(あるいは西洋語以外全部の言語)を分けたかったのです。

リービによると、これは問題です。というのは、国際会議である言語を中心としたら、その言語(それに加えその文化)の価値の方が高いというメッセージを伝えるからです。私はこの意見に賛成なので、一理あると思いますが、実践的に考えれば、現状の方が分かりやすいんじゃないかと思います。この会議のスポンサーは国際的な組織だし、皆は異なる言語を話せるので、共有出来る言語がやはり必要です。英語とフランス語は母語でも外国語でも世界中で広がっているからこそ選ばれました。(スペイン語などのように他の選択があると思いますが…)残念ながら、仕方がないと思います。

でも、実は「国際会議」と聞いて、すぐに近代オリンピックと比べたくなりました。近代オリンピックはリービが参加した会議と同じで、公用語は英語とフランス語です。でも、もう一つの公用語があって、開催国の言語です。この状況は一番いい解決だと思います。というのは、実践的な言語を使いつつ、開催国の貢献も同じように認められるからです。このようなシステムも問題点があると思いますが、国際比較文学の会議よりフェアだと思います。


国際的な近代オリンピック

3 件のコメント:

  1. 開催国の言語を使うという意見はどの国でもとても積極的な影響を与えると思います。そうすれば、開催国の色々なまだ世界に認識されていない文学作品を世界に紹介することもできるし、また大会の言語の多様化も上がります。しかし、開催国にとって大きな圧力もあると思います。例えば、開催国でどのような人を選んで自分の国の言葉で発表するかとか。私はリービ英雄の文章を読んだ時、日本人の作家に頼むことでなく、リービ英雄に頼むのが「日本人の作家が足りない」というメッセージを伝えているのではないかと思いました。もし中国でそのような世界比較文学大会が開催すれば中国人の誰が中国の作家の代表として発表できるかという問題も起こるかもしれませんね。

    返信削除
  2. 世界比較文学大会で、リービ氏が日本語でスピーチをすることを頼まれたのは、大会主催側とスピーチをする側とが大会開催前のやりとりをする際、英語でやり取りが出来て楽だったからではなかったのかとうがった見方をしてしまいました。
    大会主催者は日本語が話せないだろうし、日本人の作家で英語も流ちょうという人は多分ものすごく少ないので、お互いのやりとりが非常に難しいだろうという意識が働いたのではないかと。

    返信削除
  3. レブサックさんの考えは前の「英語支配」のテーマを思い出しますね。私もそのオリンピックのような解決はいい考えだと思いますが、ある問題は、学大会は普通欧米の国でホストしたら、東洋の国の言語をあまり使いません。でも学大会は本当にオリンピックのよう(欧米以外の国でする)なら、その解決はちょうどいいと思います。

    返信削除