2012年12月16日

中国と「東京ラブストリー」

授業の最後の読み物は「東京ラブストリー」という大人気のドラマがどのように中国で広がってきたか分析しました。この記事を書いた筆者は海賊版とテクノロジーの影響と中国の社会的な展開などのように様々なテーマについて書きました。私は中国の歴史と近代的な文化についてあまり知らないので、この記事の一番面白いところは「東京ラブストリー」がどのように中国人の若者の欲しがっている生活を反映して、将来の夢にも影響したかという課題だと思いました。


中国語の字幕がある「東京ラブストリー」

筆者によると、中国で私営企業が広がって経済が強くなった中で、以前より豊かになった人(特に大学生)が「東京ラブストリー」をゆとりがある生活のお手本として受け入れたそうです。つまり、1950年代からのアメリカと同じように、この中国人の消費化に対して価値観や恋愛習慣がテレビ番組の影響で変わったわけです。実はこの一つのドラマだけがこんなに具体的な影響があったという意見に対して疑問を抱きますが、中国人の中でもう少し贅沢な生活を目指すという傾向をはっきり反映していると思います。

異文化のドラマが本当にある社会に深く影響が与えらえるのでしょうか。私はそう信じませんでしたが、この「東京ラブストリー」の例について学びましたから、アメリカのハリウッドが輸出している文化は海外でどのような影響があるかという質問について考え始めました。同じような影響ですか。そして、そうなら、映画やテレビ番組の作者がどのような文化を輸出していますか。面白い課題だと思います。

2012年12月13日

「手紙」と差別

今週は授業で「手紙」を見ました。刑務所にいるお兄さんが六年間弟さんに手紙を書くという内容の映画を見ると、映画で描かれた犯罪者に対する差別について考え始めました。「手紙」では、直貴という弟さんが何も悪いことをしなくても、お兄さんの罪のせいで様々な差別を経験してしまいます。

この映画の差別の悪さに対して意見を言うのは簡単かもしれませんが、この課題はもちろんそんなに単純じゃないと思います。(でも、「手紙」の作家が差別を単純化したくないと思います。)どうしてかというと、差別は倫理的な反応だからです。犯罪者の家族は犯罪者だというわけじゃありませんが、心理学によると、同じ家族から来て同じ環境に影響された子供は似ている大人になる可能性が高いです。ですから、犯罪者の兄弟と会う時、どのような人かよく分からなかったら、自分を守るためにその兄弟を判断することが分かりやすい反応なんじゃないかと思います。

けれども、そう言っても、差別は差別だと思います。特に、映画で起こったように根拠なしで仕事を辞めさせたり関係を捨てたりするほど誰かを差別することは絶対だめです。信頼が出来ない理由がなかったら、他の人を信頼してみた方がいいと思います。特に、誰かが信頼されたら、いい人になりたくなる可能性が強いと信じます。
判断することは容易で、信頼することは難しいです。でも、難しくても、いい社会を作るために必要だと思います。

2012年12月6日

デスノートと自分の成長

最近デスノートをもう一度見ました。初めて見たのは約五年前の高校生の時でしたから、アニメに対して意見が変わるかもしれないと思いましたが、実は始めて見た時と同じでした。今回も一番面白いテーマは正義という課題だと思いました。

「僕は正義だ」と思っていて神様になりたい月(ライト)という主人公
  実は、私はどうしてこんなに暗い話が大好きかというと、どの課題が出てくることによって、私の価値観が変えられたからです。子供の時、私はと同じで、犯罪者を厳しく判断して、誰かが殺人をしたら(死刑を通して)殺された方がいいという立場でした。でも、このアニメのおかげで、そのような単純で厳しい判断を問題視し始めました。(アニメを見たことがなくても、成長と共に私の考え方がいつか変わったと思いますが、事実はデスノートがその変わりのきっかけだったのです。)誰が人を判断するべきか、正義は何のための正義かという問題などを自分自身に問い始めました。の欲しがっている優しい人のための新世界はいい目標かもしれませんが、犯罪者を殺すのはいい方法だというわけじゃないと思うようになりました。

私の個人的な価値観が授業で何冊も読んだ影響力のありそうな作品よりこのアニメに影響されたということはとても面白いと思います。(それがいいか悪いか分かりませんが…)けれども、デスノートは私に色々な深いテーマについて考えさせてくれたので、すごく気に入りました。

2012年12月2日

ゲームのローカライゼーション

先週はとっくにローカライゼーションというテーマについて書きましたが、今日ももう一つの例を検討したいと思います。先週はアニメのローカライゼーションを中心にしましたが、今はもう少しアメリカで成功したメディアを選びたいです。このメディアはビデオゲームです。

どうしてゲームを選んだかというと、アニメや漫画と違って、日本からの影響がとても強い中で、アメリカの独自の産業も強いからです。暴力のために時々批判されているので、ゲームはアメリカでまだ主流メディアじゃありませんが、特に男の子の中で人気が増えつつあります。ゲーム雑誌やキャラクター商品(服さえ)などの有無を通して、ゲームが若者の文化に深く入ってきたことが分かります。

どうしてゲームの方がアニメよりローカライゼーションが成功したかというと、アメリカにゲーム業界があるからこそだと思います。特に大人の間でマイクロソフトがアメリカで視聴できるように作られたゲームの方が日本型のより人気があるようです。でも、ゲーマーの始めのゲームはたいてい日本から輸入されたものです。従って、今でさえマリオ、ゼルダ、ポケモンなどは大人気で、こんなキャラクターがある商品だけが出回ったことがあります。このキャラクターが子供の時から馴染みのあるという理由で、もう少し親密感を持っています。



1980年代から今までマリオがアメリカの文化の一環になりました。

この理由があるからこそ、ゲームはアニメよりローカライゼーションすることが成功できたと思います。アメリカでは輸入された物も独自の物も人気があるからです。

2012年11月29日

新しい絵をアップしました

最近はpixivで新しい絵をアップして、いつものようにグループでフィードバックを頼みました。そして、pixivの面白い機能をとうとうしてみました。誰かがアドバイスが欲しいと言ったら、誰でもコメントする同時に描き直された絵もポストが出来るという機能です。私がこのように誰かの絵を描き直して、楽しいと思って、独自の絵の芸術者が感謝したようなので、いい実験だったと思います。

2012年11月26日

アメリカでアニメのローカライゼーション

日本のポップカルチャー(特に漫画とアニメ)が世界中で広がっていく中で、二つの現象が同時に起こっています。日本のポップカルチャーが外へ行く現象(つまりグロバライゼーション)だけではなく、各国に受け入れられる現象(言わばローカライゼーション)もあります。両方はとても大切ですが、ローカライゼーションの現象の方が面白いと思います。

でも、受け入れられるというのは具体的にどううことなのでしょうか。例えば、アメリカでアニメがローカライゼーションされたと述べたかったら、どのような根拠がありますか。一番分かりやすいのはアニメを中心にするサイトとコミュニティーでいっぱいのインターネットだと思います。イラストコミュニティーにもアニメのスタイルで描く若者が非常に多いです。一方で、最近は普通の店でも人気があるアニメのDVDを買えるようになりました。

そうは言っても、そんな根拠は大体ファンコミュニティー内のことだけなので、アニメが本当にローカライゼーションされたと言うのに十分ですか。アメリカでは、アニメはまだ人気がなくて、普通の人にとって子供以外の人が見るのは変だと思われています。でも、この状況が変わりつつあると思います。どうしてかというと、子供と若者のために作った物と作品はだんだんアニメのようなイメージを使うからです。とてもいい例は大人気の「Avatar: The Last Airbender」(日本語:「アバター 伝説の少年アン」)と「The Legend of Korra」という番組だと思います。

Avatar: The Last Airbender
The Legend of Korra
この番組はアメリカの視聴者のために作られましたが、東アジアの文化に影響されているし、アニメに似ているので、この番組はアメリカのメディアでよく「cartoon」ではなく「アニメ」と呼ばれています。日本のアニメを輸入することだけではなく、独自のアニメが(少し)主流メディアに現れたからこそ、ローカライゼーションという過程が成功すると言えると思います。

2012年11月21日

国際会議の言語

今週はリービ・ひでおが翻訳について書いた記事を読みました。私にとって一番面白いところはリービの国際比較文学の世界大会での経験だと思います。手っ取り早くまとめれば、リービは母語として英語を話しても、日本語でスピーチするように頼まれたのです。でも、それはどうして特に面白いかというと、たいていはこの会議で英語とフランス語しか話されていないからです。この経験を通して、リービは「中心」の英語(あるいは特権の西洋語)と「周辺」になってしまった日本語(あるいは西洋語以外全部の言語)を分けたかったのです。

リービによると、これは問題です。というのは、国際会議である言語を中心としたら、その言語(それに加えその文化)の価値の方が高いというメッセージを伝えるからです。私はこの意見に賛成なので、一理あると思いますが、実践的に考えれば、現状の方が分かりやすいんじゃないかと思います。この会議のスポンサーは国際的な組織だし、皆は異なる言語を話せるので、共有出来る言語がやはり必要です。英語とフランス語は母語でも外国語でも世界中で広がっているからこそ選ばれました。(スペイン語などのように他の選択があると思いますが…)残念ながら、仕方がないと思います。

でも、実は「国際会議」と聞いて、すぐに近代オリンピックと比べたくなりました。近代オリンピックはリービが参加した会議と同じで、公用語は英語とフランス語です。でも、もう一つの公用語があって、開催国の言語です。この状況は一番いい解決だと思います。というのは、実践的な言語を使いつつ、開催国の貢献も同じように認められるからです。このようなシステムも問題点があると思いますが、国際比較文学の会議よりフェアだと思います。


国際的な近代オリンピック

2012年11月15日

「深夜食堂」

「深夜食堂」という漫画を知っていますか。最近初めて第1話から第3話まで読みました。私はこのような日常的な人間関係に関する話がたいていはあまり好きじゃありませんが、この漫画は面白いところもあると思います。(もし読み続けたら、私の意見が必ず変わると思いますが、今知っていることだけについて書きます。)

私にとって、一番面白いところはレストランの名前です。「深夜食堂」という名前は二つの大事な要素があると思います。まず「食堂」という言葉を見ましょう。このレストランはどうして「~屋」か「~点」と呼ばれていないかというと、名前はお客から来たからだと思います。というのは、「食堂」という言葉はコミュニティーの感じを持っているので、この名は人間(関係)の大切さを強調するからです。このメニューさえないレストランでは、食べ物より仲間と会話の方が大切なようです。

次の大切な要素は「深夜」という言葉です。深夜食堂は夜にしか開店しませんから、普通のレストランと違うものだという点がすぐ分かります。それで、特別な所ならば特別な出来事が起こる可能性があります。その上、深夜は人が少し弱くなって本当の顔を見せる可能性がある時間だと思います。そのような時間には他の人と深い関係を持てるようになります。こんな特徴はこの食堂(つまりこの話)にとっていいんじゃないかと思います。この理由で、「深夜食堂」はとてもふさわしい名前だと思います。

この話はどうなるか全然分かりませんから、私の考えは正しいかどうかも分かりません。でも、「深夜食堂」というものはとても面白そうだと思います。

深夜でも人がたくさんいます。

2012年11月10日

翻案について

翻案の目的は何ですか。この質問について考える前に、まずは翻案と翻訳について定義したいと思います。翻訳というのは(直訳でも意訳でも)原作を外国語で書き直すことですが、翻案というのは言語だけではなく構造も文化的な言及も変えることです。翻訳も翻案も基本的な目的は原作を読めない読者のために分かりやすくすることなので、両方はいいと思いました。

でも、最近は、授業のために「菜の花や月は東に日は西に」という俳句とクレア・マリイさんの英語の翻案を読みました。そうすると、翻案の実践的な目的は何かと思い始めました。

この場合では、俳句の言語やイメージにあまり慣れていない私にとって、英語の翻案の方が分かりやすいと思いました。短過ぎる元の俳句の表したい感じが絶対分からなかったからです。(それは私だけのせいだと思いますが…。)でも、翻案の感じと原作の感じは本当に同じですか。イメージは同じですか。

 
 (「Rapeseed flowers」と「菜の花」-同じですか。違えば、大事ですか。)

どうしてこの質問を聞きたいかというと、翻案者はその俳句を自分で解釈して書き直したという点はとても大切だと思うからです。もちろん、翻訳者もこのような過程をしなければならなりません。けれども、構造と言語を守らないマリイさんのような翻案は原作と同じテーマについて書かれた独自の詩になっているんじゃないかと思います。でも、違う詩になったら、翻案の目的は一体何ですか。

翻案も役に立つと思いますが、たいていは翻訳の方がいいと思います。

2012年10月20日

直訳対意訳

作品を翻訳する際に、何が一番大切なことですか。原文の言葉を守ること(直訳)と訳文を洗練すること(意訳)と、どちらの方がいいですか。確かに、両方が出来れば一番理想的な結果ですね。でも、二つの言語の間で言語構造が違えば違うほど、そして、文化的な言及があればあるほど、自然に翻訳しにくくなります。ですから、直訳と意訳をどう折り合いを付けた方がいいでしょうか。

私の意見では、直訳を中心にしながら、不自然な翻訳になったら意訳をした方がいいと思います。つまり、同じ意味を持っている言葉を使うことに努力しながら、イディオムか口語的な表現が分かりにくくなるほど不自然になったら、訳文の言語で近い表現を探した方がいいです。でも、文化的な言及だったら、そのままにした方がいいと思います。

どうしてかというと、翻訳された作品は原作の筆者の文化への窓だからです。この窓を通して、読者は異文化のこと(例えば、習慣や常識など)を学べます。でも、分かりやすくするように翻訳者が文化的な言及を消したら、せっかくの習う契機も消えてしまうと思います。ですから、意訳しながら微妙に説明したり脚注を使ったりした方がいいんじゃないかと思います。

でも、それは私の考え方だけです。一つだけの正しい翻訳方法がないと思います。一番大切なのは直訳と意訳について考えながら翻訳することだと思います。両方はそれぞれの利用があるので、翻訳したいと思ったら、是非自分の好きな方法を選んで、他のを忘れないで下さい。

2012年10月18日

星新一の女性と書き方

最近は星新一の1960年代に書かれた「リンゴ」と「なぞの女」*という小説を読みました。面白いテーマがたくさん出てきますが、私にとって、一番面白いところは女性がどのように描かれたかということです。というのは、星の女性は話にとってあまり大切じゃなくて、まるで性格がないようだからです。でも、それは星の書き方か時代のせいかよく分かりません。

私の意見では、星の書き方の方が女性の描かれ方に対して大きい影響があるかもしれないと思います。というのは、この小説は少し科学的に書かれていて、男性もあまり性格がないようだからです。性別を問わず、この二つの小説に個人的な名前がある人物が一人しかありません。(「リンゴ」のマスターとA氏という人物の「名前」はそれぞれの役割に関係があるので、本当の名前じゃないと思います。これは星の意図かどうか分かりませんが、私の意見では、「A氏」という名前は実験に参加している人だという感じがあります。)

けれども、女性より男性の方が個人的な性格を持ちそうです。とくに「リンゴ」の二人の女の人について考えれば、まるで同じ人のように話します。ですから、女性を男性と比べると、このような違いがまだ見えるという理由で、星の小説の女性に関する状況は筆者の書き方だけではなく、時代にも影響されてしまうかもしれないと思います。

とくにスタイルの影響のようなので、星が描く女性は大きなな問題になるほど悪いステレオタイプじゃないと思いますが、読者は無批判に読めば、それは問題だと思います。

*もし読んだことがなかったら、簡単に言えば、「リンゴ」は毎晩りんごの比喩によって女性に関する夢がある男の人が急にけがをするという話です。そして、「なぞの女」では男の人が酒とけがのせいで奥さんを忘れてしまいます。

2012年10月14日

カタカナ語は翻訳ですか。

今日は日本の映画ランキングをこのサイト調べました。私が思ったように、今週の映画の中にアメリカの映画が現れました。国内のリストに「ボーン・レガシー」と「ハンガー・ゲーム」があって、全米映画ランキングを見ると、「モンスター・ホテル」や「ファインディング・ニモ3D」などが出てきます。

国内映画ランキング
私は興味があったのはランキングじゃなくて、映画の題名がどのように訳されたかということでした。アメリカでは、外国語の映画はあまり人気がないとは言え、題名は大体英語に訳されています。でも、現在の日本では、英語のタイトルは訳されなくて、たいていはカタカナで書かれているようです。

それはどうしてかというと、色々な理由があると思います。一つの可能性は、題名を翻訳したら、意味が変わってしまうという意見のせいです。例えば、この考えでは、日本語に訳された「ハンガー・ゲーム」というタイトルは「The Hunger Games」の意味を守ると思われています。

でも、同じ言葉を使ったら、やはり同じ意味を持つでしょう。私の意見では、これは翻訳じゃないと思います。というのは、翻訳者は何も自分の言語で言い換えなかったからです。直訳はもちろん大丈夫だと思いますが、カタカナ語は少しやり過ぎだと思います。

全米映画ランキング
でも、本当の問題はカタカナを使うことではないと思います。全米映画ランキングを見ると、「House at the End of the Street」は「ボディ・ハント」に訳されたことが見えるからです。でも、それよりいい翻訳は「人生の特等席」(元の題名:「Trouble with the Curve」)の例です。直訳だったらいいかもしれないと思いますが、英語が分からない日本人のための翻訳ですから、同じ言葉を使うカタカナ語よりいいと思います。結局、原作の元の意味をだいたい守りながら他の言語で言い換えることは翻訳の基本的な目的じゃないでしょうか。

2012年10月9日

漫画をアップしました

昨日は自分の描いた漫画をpixivにアップしました。元は英語で書いたので、アップした前に翻訳しなければなりませんでした。他の絵をアップした時と違って、今度はpixivの漫画が描くことに興味がある人でいっぱいのグループにポストしました。

そして、初めてのコメントをもらって、うれしかったです。これから、フィードバックを増やすために、このようなグループに参加し続けようと思います。

2012年10月7日

外国語教育を考え直してみましょう

言語教育の目的は何ですか。日本では英語は義務教育の一環ですが、何のためですか。多くの日本人の足りない英語能力は教育制度(つまり英語の教え方)のせいだと思われています。言語教育の目的は外国人とのコミュニケーションなら、言語を勉強した人は上手に話せるようにならなければ、教育制度の失敗でしょうか。

でも、これは日本だけの問題だと思いません。例えば、アメリカにも高校生と大学生はよく言語(たいていはスペイン語)を勉強しなければなりませんが、卒業した後、言語能力は急に消えてしまいます。

世界中の問題だったら、現在の言語教育の目的を考え直した方がいいんじゃないかと思います。確かに、国際的なコミュニティーと深い関係を持ちたい人や国際的なことに興味がある人にとって、今の言語教育は十分じゃないと思います。このような人には、もっと早く学び始める機会を与えた方がいいと思います。(心理学によると、13歳以下の時には言語を習う能力が一番高いからです。)このように、言語を深く学べて、バイリンガルになる可能性を目指せます。

でも、普通の人にとって言語能力より異文化の理解能力の方が大切だと思います。私の個人的な意見では、外国語を学ぶことによって自分の言語の文法など分かるようになるので、外国語を勉強した方がいいと思います。しかし、将来はこんな学生にとって外国語の能力は役に立たなかったら、現況と同じような言語教育の水準で大丈夫かもしれないと思います。この学生のために、「言語教育」では歴史や習慣を学んだり(翻訳された?)作品を読んだりするというような面白いことをし、異文化の理解能力をもう少し対象にすればいいと思います。

教育はいつも時間やお金が限られているので、これは理想的な世界しかで起これない可能性だと思いますが、学生の興味と能力によって異なる外国語の授業を受けさせることが一番いいんじゃないかと思います。

2012年10月4日

「ポニョ」と環境

私は「崖の上のポニョ」を見る度に、私の顔はこのようになります:


どうしてかというと、色々な理由があります。「ポニョ」は悪い映画だと思うというわけじゃありません。でも、表面的に面白くてかわいい映画だということを認めながら、この映画の問題点も指摘したいです。

このブログでは、「ポニョ」の環境に関するメッセージだけ中心にしたいです。宮崎の他の映画(例:「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」)と同じように、「ポニョ」には環境問題を認める場面があります。ポニョの父親(フジモト)はよく人間が原因の汚染について文句を言って、世界を海に戻したがっています。

 (「人間がいなくなったら、汚染もなくなる!確かに一番論理的な解決法なんだよ!」)

でも、この場面の後、海を守るべきだというメッセージは消えてしまいます。大変な災害が起こったのに、話では、ポニョと宗介の関係の方が大切になります。皆の環境意識の代わりに、二人の愛*のおかげで世界が助けられたのです。

私が聞きたいのは、映画の目的はポニョと宗介の関係だったら、どうしてこの災害が起こるかということです。その上、この映画の本当のメッセージは何ですか。一般的に考えれば、映画は全部深い意味が要るわけじゃありませんが、あったらいいなぁと思います。この映画では宮崎は実際の環境問題を少し含めたので、解決法は何だと思っているか知りたいです。

「ポニョ」は面白いテーマを検討する機会があったのに、その機会を無視したことは本当に残念だと思います。
 
*(ところで、5歳の子供の愛は一体何ですか。)

2012年9月30日

外国語教育に必要なこと

文化と言語はどのくらい強い関係がありますか。この質問はとても抽象的で、難しいので、私は答えられみません。でも、文化という課題は外国語教育にどのような影響があるかという話題について少し書きたいです。

学生は色々なことを勉強しなければならないので、どんな授業でも学べることは時間のせいで限定されてしまいます。ですから、外国語教育では、文法や単語のような具体的なことを中心にします。言語上で、それは基本的で必要なことなので、この状況は悪いというわけじゃないと思います。

でも、外国語教育の目的が外国人との相互理解だったら、文化を学ぶのも必要だと思います。私の経験では、授業で教えられている「文化」というものは大体文学や歴史です。それも面白くて学び甲斐がありますが、外国に行って、普通の人達と話したら、あまり役に立たないと思います。ですから、日常的な習慣や話し方の違い*を勉強した方がいいかもしれないと思います。

でも、そうしたかったら、色々な問題が出てきてしまいます。例えば、国の文化を問わず、皆はそれぞれの個人的な文化を持っているし、ステレオタイプか一般化しやすいし、「文化」というものは文法などより具体的じゃないからです。でも、とても大切ですから、せめて外国語教育にこのような日常的な文化の課題を少しだけ導入することくらい出来たらいいと思います。

外国語教育では、文学などの代わりに日常的な文化をもう少し対象にしたら、相互理解はもう少し楽になるんじゃないかと思います。

*(例えば、外国人からアメリカの皮肉なジョークは分かりにくいと聞いたことがあります。そして、日本人じゃない人にとって、表したいことを全部言わない伝統的な話し方も分かりにくいです。このような話し方が分からなくては、相互理解は難しくなる可能性があります。)

2012年9月25日

コミュニティープロジェクト

私のコミュニティープロジェクトのために、最近はpixivのアカウントを作りました。pixivというのは、ユーザーが自分の描いた絵やマンガをアップが出来るサイトです。他のユーザの作品についてコメントを書きながら、自分の絵と(日本語の)マンガをアップするつもりです。色々なコメントやフィードバックをもらうようにも願っています。



...


・・・でも、頑張ります!

2012年9月23日

「国際語」は現実的なことですか。

時々、国際語があったらいいなぁと思います。皆が話せる国際語を通して世界中で相互理解があったら、必ず世界平和になる・・・というわけじゃありませんが、確かに政治家や国際的な会社員にとってとても便利になるんじゃないかと思います。
 
でも、国際語としてどの言語を選べればいいですか。現在は、英語は「国際語」に一番近い言語だと思いますが、僅かな国々しか深い関係がないので、本当の国際語になったら、世界の人口の過半数にとって、全然フェアじゃないと思います。ですから、エスペラントのような人工言語を選ぶ方がいいかもしれません。

でも、外国語の勉強は難しいので、嫌だと思っている人が多いです。そして、国際的な経験があまりない(あるいは欲しがっていない)人にとって、国際語の能力は役に立たないです。特別な動機がない人は学校に国際語を習わせられても、日常的に使わないので、卒業の510年後、話さないようになるに違いないと思います。ですから、「国際語」じゃない英語と同じで、勉強したい人だけ国際語を覚えるんじゃないかと思います。

国際的なことに興味がある人にしか話せないようになったら、本当で普遍的な「国際語」と言われていますか。

私にとって、国際語はいいアイディアで、理想的な世界だったらあると思います。しかし、そんな言語があっても、人口の過半数はあまり参加しないかもしれないので、国際語はあまり現実的じゃないと思います。

2012年9月22日

紹介

私のブログにようこそ!

プリンストン大学の4年生です。専攻はドイツ語ですが、日本語も勉強しています。このブログの内容は授業で話し合ったことに対する私の意見なので、面白いか面白くないか分かりませんが、頑張ります。

描くことに興味があるので、時々自分が描いた絵もアップするかもしれません。

じゃあ、よろしくお願いします。