2012年10月20日

直訳対意訳

作品を翻訳する際に、何が一番大切なことですか。原文の言葉を守ること(直訳)と訳文を洗練すること(意訳)と、どちらの方がいいですか。確かに、両方が出来れば一番理想的な結果ですね。でも、二つの言語の間で言語構造が違えば違うほど、そして、文化的な言及があればあるほど、自然に翻訳しにくくなります。ですから、直訳と意訳をどう折り合いを付けた方がいいでしょうか。

私の意見では、直訳を中心にしながら、不自然な翻訳になったら意訳をした方がいいと思います。つまり、同じ意味を持っている言葉を使うことに努力しながら、イディオムか口語的な表現が分かりにくくなるほど不自然になったら、訳文の言語で近い表現を探した方がいいです。でも、文化的な言及だったら、そのままにした方がいいと思います。

どうしてかというと、翻訳された作品は原作の筆者の文化への窓だからです。この窓を通して、読者は異文化のこと(例えば、習慣や常識など)を学べます。でも、分かりやすくするように翻訳者が文化的な言及を消したら、せっかくの習う契機も消えてしまうと思います。ですから、意訳しながら微妙に説明したり脚注を使ったりした方がいいんじゃないかと思います。

でも、それは私の考え方だけです。一つだけの正しい翻訳方法がないと思います。一番大切なのは直訳と意訳について考えながら翻訳することだと思います。両方はそれぞれの利用があるので、翻訳したいと思ったら、是非自分の好きな方法を選んで、他のを忘れないで下さい。

2012年10月18日

星新一の女性と書き方

最近は星新一の1960年代に書かれた「リンゴ」と「なぞの女」*という小説を読みました。面白いテーマがたくさん出てきますが、私にとって、一番面白いところは女性がどのように描かれたかということです。というのは、星の女性は話にとってあまり大切じゃなくて、まるで性格がないようだからです。でも、それは星の書き方か時代のせいかよく分かりません。

私の意見では、星の書き方の方が女性の描かれ方に対して大きい影響があるかもしれないと思います。というのは、この小説は少し科学的に書かれていて、男性もあまり性格がないようだからです。性別を問わず、この二つの小説に個人的な名前がある人物が一人しかありません。(「リンゴ」のマスターとA氏という人物の「名前」はそれぞれの役割に関係があるので、本当の名前じゃないと思います。これは星の意図かどうか分かりませんが、私の意見では、「A氏」という名前は実験に参加している人だという感じがあります。)

けれども、女性より男性の方が個人的な性格を持ちそうです。とくに「リンゴ」の二人の女の人について考えれば、まるで同じ人のように話します。ですから、女性を男性と比べると、このような違いがまだ見えるという理由で、星の小説の女性に関する状況は筆者の書き方だけではなく、時代にも影響されてしまうかもしれないと思います。

とくにスタイルの影響のようなので、星が描く女性は大きなな問題になるほど悪いステレオタイプじゃないと思いますが、読者は無批判に読めば、それは問題だと思います。

*もし読んだことがなかったら、簡単に言えば、「リンゴ」は毎晩りんごの比喩によって女性に関する夢がある男の人が急にけがをするという話です。そして、「なぞの女」では男の人が酒とけがのせいで奥さんを忘れてしまいます。

2012年10月14日

カタカナ語は翻訳ですか。

今日は日本の映画ランキングをこのサイト調べました。私が思ったように、今週の映画の中にアメリカの映画が現れました。国内のリストに「ボーン・レガシー」と「ハンガー・ゲーム」があって、全米映画ランキングを見ると、「モンスター・ホテル」や「ファインディング・ニモ3D」などが出てきます。

国内映画ランキング
私は興味があったのはランキングじゃなくて、映画の題名がどのように訳されたかということでした。アメリカでは、外国語の映画はあまり人気がないとは言え、題名は大体英語に訳されています。でも、現在の日本では、英語のタイトルは訳されなくて、たいていはカタカナで書かれているようです。

それはどうしてかというと、色々な理由があると思います。一つの可能性は、題名を翻訳したら、意味が変わってしまうという意見のせいです。例えば、この考えでは、日本語に訳された「ハンガー・ゲーム」というタイトルは「The Hunger Games」の意味を守ると思われています。

でも、同じ言葉を使ったら、やはり同じ意味を持つでしょう。私の意見では、これは翻訳じゃないと思います。というのは、翻訳者は何も自分の言語で言い換えなかったからです。直訳はもちろん大丈夫だと思いますが、カタカナ語は少しやり過ぎだと思います。

全米映画ランキング
でも、本当の問題はカタカナを使うことではないと思います。全米映画ランキングを見ると、「House at the End of the Street」は「ボディ・ハント」に訳されたことが見えるからです。でも、それよりいい翻訳は「人生の特等席」(元の題名:「Trouble with the Curve」)の例です。直訳だったらいいかもしれないと思いますが、英語が分からない日本人のための翻訳ですから、同じ言葉を使うカタカナ語よりいいと思います。結局、原作の元の意味をだいたい守りながら他の言語で言い換えることは翻訳の基本的な目的じゃないでしょうか。

2012年10月9日

漫画をアップしました

昨日は自分の描いた漫画をpixivにアップしました。元は英語で書いたので、アップした前に翻訳しなければなりませんでした。他の絵をアップした時と違って、今度はpixivの漫画が描くことに興味がある人でいっぱいのグループにポストしました。

そして、初めてのコメントをもらって、うれしかったです。これから、フィードバックを増やすために、このようなグループに参加し続けようと思います。

2012年10月7日

外国語教育を考え直してみましょう

言語教育の目的は何ですか。日本では英語は義務教育の一環ですが、何のためですか。多くの日本人の足りない英語能力は教育制度(つまり英語の教え方)のせいだと思われています。言語教育の目的は外国人とのコミュニケーションなら、言語を勉強した人は上手に話せるようにならなければ、教育制度の失敗でしょうか。

でも、これは日本だけの問題だと思いません。例えば、アメリカにも高校生と大学生はよく言語(たいていはスペイン語)を勉強しなければなりませんが、卒業した後、言語能力は急に消えてしまいます。

世界中の問題だったら、現在の言語教育の目的を考え直した方がいいんじゃないかと思います。確かに、国際的なコミュニティーと深い関係を持ちたい人や国際的なことに興味がある人にとって、今の言語教育は十分じゃないと思います。このような人には、もっと早く学び始める機会を与えた方がいいと思います。(心理学によると、13歳以下の時には言語を習う能力が一番高いからです。)このように、言語を深く学べて、バイリンガルになる可能性を目指せます。

でも、普通の人にとって言語能力より異文化の理解能力の方が大切だと思います。私の個人的な意見では、外国語を学ぶことによって自分の言語の文法など分かるようになるので、外国語を勉強した方がいいと思います。しかし、将来はこんな学生にとって外国語の能力は役に立たなかったら、現況と同じような言語教育の水準で大丈夫かもしれないと思います。この学生のために、「言語教育」では歴史や習慣を学んだり(翻訳された?)作品を読んだりするというような面白いことをし、異文化の理解能力をもう少し対象にすればいいと思います。

教育はいつも時間やお金が限られているので、これは理想的な世界しかで起これない可能性だと思いますが、学生の興味と能力によって異なる外国語の授業を受けさせることが一番いいんじゃないかと思います。

2012年10月4日

「ポニョ」と環境

私は「崖の上のポニョ」を見る度に、私の顔はこのようになります:


どうしてかというと、色々な理由があります。「ポニョ」は悪い映画だと思うというわけじゃありません。でも、表面的に面白くてかわいい映画だということを認めながら、この映画の問題点も指摘したいです。

このブログでは、「ポニョ」の環境に関するメッセージだけ中心にしたいです。宮崎の他の映画(例:「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」)と同じように、「ポニョ」には環境問題を認める場面があります。ポニョの父親(フジモト)はよく人間が原因の汚染について文句を言って、世界を海に戻したがっています。

 (「人間がいなくなったら、汚染もなくなる!確かに一番論理的な解決法なんだよ!」)

でも、この場面の後、海を守るべきだというメッセージは消えてしまいます。大変な災害が起こったのに、話では、ポニョと宗介の関係の方が大切になります。皆の環境意識の代わりに、二人の愛*のおかげで世界が助けられたのです。

私が聞きたいのは、映画の目的はポニョと宗介の関係だったら、どうしてこの災害が起こるかということです。その上、この映画の本当のメッセージは何ですか。一般的に考えれば、映画は全部深い意味が要るわけじゃありませんが、あったらいいなぁと思います。この映画では宮崎は実際の環境問題を少し含めたので、解決法は何だと思っているか知りたいです。

「ポニョ」は面白いテーマを検討する機会があったのに、その機会を無視したことは本当に残念だと思います。
 
*(ところで、5歳の子供の愛は一体何ですか。)